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平安時代の庶民の暮らしとは?現代とは違いすぎる過酷な生活

紫式部像
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NHKの2024年大河ドラマは「光る君へ」という紫式部を中心にしたお話です。

紫式部と言えば、代表的な「源氏物語」「紫式部日記」などが有名な平安時代を代表する女流作家です。

その影響からか平安時代は優雅で平和な世界と思っている方もおおいと思います。

しかしそれは全体の0.1%ほどの貴族…しかもかなり上の位の貴族たちのお話です。

それ以外の貴族は貴族とは名ばかりのまずしい生活を送っていました。

ではそんな時代の庶民はどんな生活だったのでしょう。

今回はそのことについて書いてみたいと思います。

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庶民にとって平安時代は過酷で危険が一杯だった!

平安時代の日常風景平安時代の日常風景

 

794(泣くよ)うぐいす平安京という暗記用のセリフがあるように、平安時代は794年から始まり1185年くらいまでの400年ほどの間をいいます。

これは江戸時代よりも長いのですね。

その間庶民の生活と言えば、それは「過酷」であり「危険」であり「飢え」と「病気」との戦いでした。

しかも病気になっても、祈祷など医術ではなく、呪術によって治ると信じられていたため、病になっても運が良ければ助かるし、悪ければ死ぬというイメージでした。

 

 

現代の女性達の憧れの時代の平安時代

人と話していて、「タイムマシンがあったら何時代にいきたいですか?」というような話題になることがあります。

そんな時に女性はたいてい「平安時代」か「幕末」という方が多いような印象です。

ちなみに男性はかなりな確率で戦国時代という話になります。

平安時代はやはり源氏物語の影響があるのか、貴族の姫君の様子しか歴史の勉強をしなかったからなのか、優雅な世界を想像するかたが多いです。

ちなみに幕末好きな方はたいてい坂本龍馬がお好きな方が多い印象です。

私からしたらあんな思い付きで行動し生きている男は危険でしかないと思います。

 

平安時代はたしかに平和だったと言える

平安時代は奈良時代のように数年おきに遷都があったわけでも、鎌倉時代のように海外から侵攻される危険にさらされていなかったという点では確かに平安、平和だったと思います。

しかし、実際は違いました。

芥川龍之介の「羅生門」をイメージしてください

実際の平安時代の様子は芥川龍之介の「羅生門」の様子を思い浮かべてください。

流通は発達していませんし、作物なども出来がよくなく過酷な自然環境でさらに食糧難でした。

京の都では病で人は死に、路上は死体がごろごろと転がっていました。

その死体から身ぐるみはいで、それを売りさばく、羅生門の老婆のように死人の髪の毛を切りカツラを作って売るなんてこともよくある事でした。

鴨川には死体が流れる、井戸には死体が投げ込まれて、それを飲み、感染症が大流行なんてことも常でした。

 

では貴族は安全な生活だったかと言えば、不健康な生活でした。

女性は重たい着物で体を何かにもたれていないと疲れ切ってしまう。ごちそうを食べ過ぎて、白米の食べ過ぎで脚気になったり糖尿病になったりとかなり大変な生活でした。

宮中に上がっても過酷な権力闘争に巻き込まれて、神経をすり減らし、子供が生まれてもいつ毒殺されるかわからない、というような生活でした。

男性は藤原道長がそうであったように親戚同士で権力抗争にあけくれ、肥満で酒ばかり飲み、アル中ばっかりのなかで膨大な仕事もこなしている生活でした。

また膨大な儀式も貴族を苦しめました。

そのうえ、方角が悪い、風水が、怨念がと言われれば、行き先がたとえ近くても回り道をして牛車に乗っていかなくてはなりませんでした。

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庶民たちの住まいとは?

竪穴式住居竪穴式住居

貴族たちの住まいは寝殿造りといわれる棟がたくさん分かれている造りになっていますが、庶民の住まいは地方では縄文時代から続く竪穴式住居が多く、都では木の板を張り付けただけの粗末な家でした。

室内は土間が半分と寝るための板敷きの部屋だけでした。

教科書などで見る平安時代の貴族の邸宅の寝殿造りと庶民の木の板の家とではあまりにかけ離れています。

平安時代は現代よりも過酷な格差社会だったのです。

 

庶民の食事とは

粟

貴族たちの食事は四つ足の肉はよくないとされて、お魚や鳥肉、野菜、白米などを食する場合が多かったようですが、庶民にはあたりませんでした。

税金を米で払っていたために、ヒエや粟などを雑炊にして食べていたようです。

餓鬼草紙という書物があるのですが、それは時代が長い平安時代のいつ頃に書かれたかはっきりとはしていないのですが、平安時代後期あたりに書かれたものといわれています。

そこにある餓鬼草紙には庶民の生活が描かれています。

粗末な掘っ立て小屋のような家、栄養不足からくるお腹がポッコリと膨らみ、手足は細く、死に絶えたのか路上に転がっている人など、恐ろしい風景です。

庶民の食べていたものははっきりと資料が残っていません。

それくらい、世の中は庶民の生活はないがしろにされていたんですね。

しかし、餓鬼草紙の絵から庶民は常に栄養失調になっていたのだということがわかります。

庶民の生活インフラ

庶民の生活で一番重要なのは、食事の次はおトイレ問題かなと思います。

貴族のおトイレは樋箱とよばれるおまるのようなもので用をすませていました。

それを下水のような場所に流してすてていたようです。

そしてその下水を庶民は飲む事もあったようです。

もはや恐ろしすぎて、現代の生活インフラが整った状態以外では生活したくないし、できないですね。

そして肝心の庶民のおトイレ事情ですが、同じように樋箱という箱に用を済ませて川に捨てに行っていたようです。

もう少し時代が過ぎると、川に直接しに行っていたことからトイレを「かわや」というようになったようです。

 

まとめ

貴族も仰天生活エピソードですが、庶民の場合はけた違いの生活習慣です。

間違っても平安時代に生まれ変わりたいなんて…私は思えません。

 

大河ドラマの光る君へはどそのあたりはどんな描かれ方をするのかな?と思います