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紫式部が現代に生きていたら、どんな人生を歩いていたのか?

紫式部像
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はじめに

宇治十帖の像宇治十帖の像

平安時代中期に活躍した女流作家、紫式部をご存じですか?

彼女は世界最古の長編小説「源氏物語」を書き、今でもいろいろな国で影響をあたえています。

そんな紫式部が生きた当時の社会での、女性の地位は低く、自由に自分の才能を発揮することができなかったようです。

そんな時代に生きた紫式部を現代に生きたと仮定したらどんな人生をあるいていたのか考えてみました。

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紫式部の生きた時代とそこから見える紫式部の性格

平安時代中期

はっきりとした生没年は不明ですが、天延元年(973年)に生まれで、長元4年(1031年)正月中旬頃に亡くなったとされています。

58歳でお亡くなりになったようですね。

『源氏物語』の作者として知られていて、それだけじゃなくて、藤原道長の要請で宮中に上がりその宮中の様子を書いた『紫式部日記』も残しています。

秘密保持契約とか…ないんですね。おおらかな時代ですよね。

歌人としても優れ、子供時代から晩年に至るまで自らが詠んだ和歌から選び収めた家集『紫式部集』があります。

自分で歌集をまとめるなんて…紫式部は私は控えめにしていてもまわりがそんなことないと言ってくるみたいな文章を紫式部日記に書いていますが、自分でそんな歌集作ってその言いぐさはないですよね。

さらに、清少納言は自分のことを賢いと思っていて、嫌な奴だとか言ってますが、紫式部さんも結構自己顕示欲の強いお方です。

そうはいっても『小倉百人一首』にも和歌が収められているし、才能はあったんでしょうけど…。

紫式部父の事

父の藤原為時は、官位は正五位下と下級貴族とされていますが、花山天皇に漢学を教えた漢詩人、歌人です。

その影響で小さいころから漢詩に親しみ、なじんでいたようです。

為時は紫式部の賢さを見て、男に生まれなかったことを嘆いたそうです。頭はやっぱりよかったんですね。

紫式部父の社会的地位は現代で言ううところの公務員的な存在です。

しかもキャリアではなくノンキャリア組な雰囲気です。

かつてはそれなりに裕福な家柄だったようですが、紫式部の生きた時代の家格はかなり衰退していたようです。

 

父のリストラ

紫式部父・為時は30代に東宮の読書役を始めとして東宮が花山天皇になると蔵人、式部大丞と出世していますが、花山天皇が出家すると散位(リストラされて)となります(位禄(お給料はある)はある)。

10年後、一条天皇に詩を奉じた結果、(やっと)越前国の受領となり、紫式部は娘時代の約2年を父の任国で過ごしています。

10年間紫式部父は無職のままだったんですね。

紫式部の結婚

父親の無職期間の為か、紫式部は20歳代後半でかなり年上の藤原宣孝に嫁ぎ、一女(大弐三位)を産みます。

しかし長保3年(1001年)に結婚後3年程で夫は他界してしまいます。

その後『源氏物語』を書き始めたとされて、その評判を聞いた藤原道長に召し出されて、道長の娘で、一条天皇中宮の彰子に女房兼家庭教師として仕えている間にお勤めをしながら『源氏物語』を完成させたとされています。

 

紫式部を現代に置き換えると?

紫式部紫式部

夫との結婚生活はわずか3年ほどで夫の他界という形で終わってしまいます。

その時には幼い娘がいて、どうやって暮らしていけばいいの?って感じだったと思います。

そんな時に紫式部を救ったのは物語の世界でした。

紫式部は源氏物語を書き始めます。

現代で言うなら、ブロガーか、ユーチューバーです。

それがヒットしてベストセラーになっていきます。

それに目を付けたのが藤原道長です。

自分の娘を入内させていて、彰子の元で漢文の家庭教師を探していたところに声がかかった状態です。

女が外で働くのははしたない庶民のすることだとされていた時代で、娘の事もあり、働くことを選びます。

彰子のサロンで女房として働く選択をします。

時の権力者藤原道長の娘で一条天皇の后の彰子のサロンといえば、現代ででいうなら超大手企業です。

しかも宮中といえば、公務員・宮内庁勤めです。

紫式部は今でいうところのキャリア女性だったということになります。

もちろん公務員試験などはありませんから、現地採用枠という形か、有識者枠だったかもしれませんが、それでも女性の身分が低かった時代に自分の書いた文章でヘッドハンティングされるというのはすごいことです。

紫式部は宮中勤めの最中に源氏物語を完成させて、本を出版させています。

これは藤原道長の協力が当然あったはずです。

なぜなら紙などは当時はかなり高価で、サロンではたらくくらいのお給料では当然賄えない額です。

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宮中でいじめはなかったか?

紫式部は宮中で働いていて嫌なことがあったとよく書いています。

一番印象に残ったのは一条帝が紫式部の様子を見ていて「日本紀をよく知っているに違いない」と紫式部をほめた様子をみて、他の女房達が紫式部の事を「日本紀の御局」と呼び出したそうなんですね。

それの意味は「日本紀のおばさん」とか「日本紀婆ぁ」という感じの意味合いです。

これはかなり嫌だと紫式部はこぼしています。

紫式部という人の私の印象

紫式部という人は幼くして母をなくし、父親に引き取られて育ちます。

しかし父親の家格は低く、家自体も衰退していて、十分な後ろ盾を得られず、楽しみというものは家にある漢文だけ…。という雰囲気に見えます。

やっと結婚できたと思ったら3年で終わった結婚生活…。

千年を超えて、私たちに見せてくれる平安の世界はそんな境遇の紫式部だったからこそ、為しえることができたものだったのだなぁと思います。

紫式部の晩年は彰子の死去とともに宮中を出ることになります。

その後姿を見なくなりますし、表舞台にもでてこなくなります。

しかし、最晩年に公達が紫式部の今の家を探して、その家の前で「ここがあの紫式部の家だそうだ、ずいぶんと落ちぶれて…。」みたいな話をしてたそうです。

そしたら中から、老婆が出てきて「人の家先でうるさいね!」と叫んだそうです。

それが本当に紫式部だったかは不明です。

まとめ

紫式部は現代で生きてたら、学生時代からピクシブで公開していた小説が編集者の目にとまり本を出版して、その内容がバズって政府の有識者会議などのメンバーになる…。

という感じでしょうか。

そして平安のころと違うのは、出版した本の印税で日々の生活に困ることなく暮らしていけるということでしょうか。

源氏物語の印税が発生していたら、紫式部はもう少し優雅に暮らせていたんじゃないかと思うのです。