平安時代を代表する政治家であり、歌人としても名高い藤原道長をご存じですか?
道長の読んだ歌
「この世をば、我が世とぞ思う望月の 欠けたることの なしと思えば」
は、その意味や解釈について、さまざまな議論がなされてきました。
これまでの解釈では、以下の2つが有力です。
1、「この世はすべて自分のものだ」という解釈
2、「今夜のこの月を 私は心ゆくものと思う」という解釈
2の解釈は、山本淳子氏によって最近提唱されたものです。
山本氏は、道長が満月の美しさに心を打たれ、その月の美しさを自分のものにしたいという感情を詠んだと考えました。
これらの解釈は、どちらも道長の複雑な心理を反映していると言えるのではないでしょうか。
権力欲や傲慢さを持つ一方で、美しいものに心を打たれる繊細な感性も持ち合わせていた、そんな道長の二面性が、この和歌に表れているのかもしれません。
今回私の考えとしては違う考えを提案してみたいと思います。
道長の健康状態や、社会的権力を得たよう見えつつも、その裏での道長の人生を見るとまた違った解釈が見えてくると思います。
権力欲や傲慢さの象徴としてなのか、それとも、美しいものへの感性の表れとして捉えるのか?
それは、受け取る側のそれぞれの価値観や感性に委ねられているのではないかと思います。
ここでは、藤原道長の「この世をば」の意味や解釈について、さまざまな角度から考察していきたいと思います。
「この世をば」のそれぞれの解釈
まずは、それぞれの解釈について、詳しく解説していきます。
1、「この世はすべて自分のものだ」という解釈
これは道長の権力欲や傲慢さを表したものとされていて、全盛の道長の人生を謳歌している様子を読んだものとされ、道長は、摂政・関白として平安時代の最高権力者であり、その地位をあらわしてこの和歌を詠んだとかいしゃくされているようです。
いかにも人生ブイブイ言わしてます…みたいな印象なんでしょうね。
この解釈での現代風に訳してみると
「この世は私の思い通り、満月が完成形のようにわが藤原家も盤石である」
この解釈は現在一番有力で、学校でもこの解釈が教えられていると思います。
たしかにその当時の道長の社会的地位や状況をみるとその通りだとみえるかもしれません。
この歌を残しているのがこの和歌がよまれた時に右大臣だった甥の藤原実資(ふじわらのさねすけ)の「小右記(しょうゆうき)」に記されています。
「小右記」によれば、この日は道長の三女、 威子(いし)((1000~36)が後一条天皇(1008~36)の皇后になったことを祝う宴(うたげ) が開かれていました。
歌が詠まれたのはその二次会でした。
祝宴には道長と子の摂政・藤原頼通(992~1074)をはじめ、左大臣、右大臣など貴族たちがそろって参加し、二次会も座る隙間がないほど大盛況だったといいます。
その状況であの和歌では、解釈は「わが藤原家はもう絶対栄えっぱなしだよね!」という一択であると思えます。
この時の藤原実資の気持ちはどうだったのか?
この状況を残した当時右大将藤原実資に道長は「今から座興で歌を詠むので返歌せよ」と命じて「望月の歌」を詠んだのは、盃が一巡した後のことだったようです。
この解釈を確定させていたのは、藤原実資がこのこの世をばの歌に対してあきれたように感じる内容の日記があったからです。
そのため、実資は「優美な歌で、返歌のしようがない。皆でただこの歌を詠じてはどうか」と出席者に呼びかけて、一同がこの歌を数回吟詠した。道長も歌を返さなかった実資を責めなかったとあります。
実資は優秀な人物だったようで、その当時一流の知識人でありながら、間違ったことがあれば道長にこびずに意見する気骨のある人だったようで、その時実資が返歌をしなかったのは権勢を自慢する「望月の歌」に内心あきれたからで、とはいえ祝いの席を台なしにするわけにもいかず、仕方なく出席者に歌の唱和を促したのだろうと思われてきました。
一同は道長の機嫌を損ねないよう「望月の歌」を唱和し、道長も機嫌を直した、という構図ができあがっていました。
道長にご機嫌取りして、即興の歌を声を合わせて唱和する貴族たちの姿が目に浮かぶようで、「望月の歌」を従来のように解釈する限り、何の違和感も感じません。
2、「今夜のこの月を私はこころゆくもの」と思うという解釈
この解釈は京都先端科学大学教授の山本淳子さんが、これまでとは異なる「望月の歌」の新解釈を発表されています。
近年の研究では、どうやら道長は得意満面にわが世の春を謳歌するような状況ではなかったこともわかってきました。
山本さんは当時の暦は月の満ち欠けを基準に決められ、通常なら満月は15日になっていて、歌が詠まれた16日の月は少しだけ欠けた 十六夜の月だったとされています。
『小右記』に当時の月の状況が「当日は夜更けまで明るい月が出ていた」とあり、道長が月を見ていたでしょう。
実は寛仁2年10月16日の月は天文暦法上はほぼ満月だったが、和歌の世界で十六夜の月を満月と詠むのは極めて不自然だ。道長は「望月」に別の比喩を込めたのではないか…というのが山本さんの考えのようです。
この『月』に違う意味を込めていたのではないかというのです。
望月には違う意味…
この時の道長の娘たちの状況は3人の娘が宮中に入っています。
道長が実質上のスポンサーとなっていた源氏物語の中でも天皇が太陽で、妃が月と表現されています。
明らかに満月ではない少し欠けた十六夜の月に強引に満月を掛けて、望月の歌を詠んだというよりは今のこの時を楽しみたい、家門でこの世の中を乗りきりたいという結束の歌だったというのが、山本さんの考えのようです。
3、新説、私の考え
ここで後に書く道長の健康状態について少し触れていきます。
道長の状態はその自身の日記「御堂関白記」にも書かれていますが、50歳前後に目が見えにくくなり、のどがよく乾く、多汗の症状などがあり、背中にできものができて、その膿等を切開してとったりとなかなか病気に悩まされている様子が見て取れます。
この症状はおそらく糖尿病です。
権勢をほこり、娘や、孫たちを妃や重要ポストに据えて、一族は盤石に見えても、道長自身は自分でお金を使うわけでもなく、ひたすら家門のために働きとおしの毎日でした。
天皇に退職を願い出ても、許されることはなく、眠気をこらえて、仕事漬けの毎日。
辛いです。
道長の心に「俺って何のためにはたらいてるの?」って思っても仕方ないと思いませんか?
私はこの事実を知って、歌の見方が変わりました。
私の見方、解釈は
「この世は自分のものだと思ったけど、月のように欠けることはないと思っていたけれど…。」
てはないかと思うのです。
藤原道長のその時の状態とは?
表向きの状態
道長はこの歌を詠んだ時表向きは、この世の春を謳歌しているように絶頂の時でした。
摂政になり、娘たちを3代の天皇に入内させて、孫は天皇になります。
望月の歌を見れば、調子乗ってる嫌な奴って見え方がしても当然のことです。
裏側の見方、道長のその時のおかれた状況と健康状態は?
先にも書いていますが、この歌の時は退職を願っても許されず、目元も見えにくく、のども乾き、だるさも続き、本当に表向きの顔と同一人物か?というくらい大変そうな道長です。
道長という人は、本来ならば生まれた時は五男で権力を手にするには遠い人物でした。
それが、兄たちが続いて、他界し、甥と権力抗争の果てにつかんだその役職でした。
権力は手にしたけど、病に侵され、休む事も許されず、苦しみながら生きた道長。
そう考えると、望月の歌に見える景色が違って見えてしまいます。
まとめ
道長の歌の解釈はいかがでしたか?
解釈はいろいろあると思いますが、道長の病や状況を深読みすると違ったものが見えてきますね。
だから歴史はおもしろいのです。