戦国時代を代表する二人の武将、織田信長と明智光秀。
彼らは主従関係にありながら、最後には「本能寺の変」で対立することとなった二人の相性を、姓名判断を通して分析してみます。
天下統一を目指した織田信長と、その右腕として活躍しながらも主君に刃を向けることとなった明智光秀。
この二人の複雑な関係性の裏には、名前に秘められた運命の糸が絡み合っていたのかもしれないと思い、分析してみました。
姓名判断という古来の叡智を用いて、歴史に名を残すこの二人の相性を探ってみましょう。
果たして、彼らの名前は協調と対立、信頼と裏切りという激動の人間関係を予言していたのでしょうか。
戦国の世を生きた二人の武将の運命を、姓名判断を通して読み解く旅に出かけましょう。
この分析が、歴史の謎が違った見方ができるかもしれません。
読んだ方が想像して楽しい内容になってます。
歴史好き、占い好きな方だけではなく、一種のエンタメとして読んでもらえたらうれしいです。

明智光秀と織田信長の基本情報
まず、現代にも伝わる両者の名前の画数を詳細に分析します。
現代にも伝わる明智光秀、織田信長という呼び方は当時の社会では一般的には呼ぶと無礼な呼び方となってしまうため違う呼び方、通称名で呼び合っていました。
この項目では現代にも伝わる呼び方の相性を分できしています。
通称名での分析は下の方にありますよ。
もう少し読み進めてくださいね。
明智光秀
- 明(あけ):8画
- 智(ち):12画
- 光(みつ):6画
- 秀(ひで):7画
- 総画数:33画
織田信長
- 織(お):18画
- 田(だ):5画
- 信(のぶ):9画
- 長(なが):8画
- 総画数:40画
五格の比較
両者の五格(天格、人格、地格、外格、総格)を比較します。
明智光秀
- 天格:20画(明 + 智)
- 人格:18画(智 + 光)
- 地格:13画(光 + 秀)
- 外格:15画(総格 – 人格)
- 総格:33画
織田信長
- 天格:23画(織 + 田)
- 人格:23画(田 + 信)
- 地格:17画(信 + 長)
- 外格:17画(総格 – 人格)
- 総格:40画
相性分析
総格の相性
両者の総格を足して9で割った余りを見ます:
33 + 40 = 73
73 ÷ 9 = 8 余り 1 余り1は、「相性が良い」とされています。
これは新しい始まりや独立を意味し、お互いに刺激し合える関係を表しています。
しかし、この良好な相性は、同時に競争心や対立を生む可能性も秘めています。
人格の相性
光秀の人格(18画)と信長の人格(23画)の差は5画です。
5画差は、「やや相性が良い」とされます。
互いに理解し合える部分がありながらも、微妙な価値観の違いが存在する可能性をある・・・というところでしょうか。
天格の比較
光秀の天格(20画)は「立身出世、幸運」を表す吉数です。
一方、信長の天格(23画)は「大吉の暗剣殺」とされ、強い運気と同時に危険も伴う数字です。吉凶が背中合わせという感じです。
両者とも強い運気を持っていますが、信長の方がより強烈な運命を背負っているといえます。
地格の比較
光秀の地格(13画)は「頭脳明晰」を表す吉数です。
信長の地格(17画)は「勝利と勇気」を表します。
両者とも優れた才能を持っていますが、その性質が異なることがわかります。
外格の比較
光秀の外格(15画)は「発展リーダー型」を示し、信長の外格(17画)も同様に強いリーダーシップを示唆します。
両者とも指導者としての資質を持っていることがわかります。
総合的な解釈
姓名判断の観点からは、明智光秀と織田信長は基本的に良好な相性を持っていたと解釈できます。
二人が出会ったばかりの頃は、関係は良好だったとの史実もあります。
信長が光秀の才能にほれ込んでいたという感じですが、一方で光秀のまじめさや古い慣習に引きずられた性格が信長には耐えられなかったという印象もあります。
両者とも強い運気と才能を持ち、リーダーシップの素質があります。
しかし、その才能の性質や運命の強さや方向性に違いがあり、これが両者の関係に微妙な緊張をもたらしたのかな?という雰囲気があります。
特に注目すべきは、信長の天格(23画)が「暗剣殺」の数字であることです。
これは強い運気と同時に、周囲との軋轢や危険を示唆しています。
光秀の総格(33画)も「天下取りの強い数字」とされ、最後に転落する可能性を示唆しています。
これらの要素が組み合わさることで、初期には良好な関係を築きながらも、最終的には対立に至る可能性が示されています。
実際の歴史において、光秀が信長に反旗を翻した「本能寺の変」は、この姓名判断の結果と一定の整合性を持っているといえるでしょう。
明智十兵衛の姓名判断
明智十兵衛(明智光秀の通称)と織田三郎(織田信長の通称)の姓名判断を詳しく行います。
画数計算
- 明(あけ): 8画
- 智(ち): 12画
- 十(じゅう): 2画
- 兵(べ): 7画
- 衛(え): 6画
五格の算出
- 天格: 明 + 智 = 8 + 12 = 20画
- 人格: 智 + 十 = 12 + 2 = 14画
- 地格: 十 + 兵 + 衛 = 2 + 7 + 6 = 15画
- 外格: 総格 – 人格 = 35 – 14 = 21画
- 総格: 8 + 12 + 2 + 7 + 6 = 35画
各格の解釈
天格(20画): 「立身出世、幸運」を表す吉数です。先天的な資質や環境が恵まれていることを示唆します。
人格(14画): 「穏やかで平和」を意味します。調和のとれた性格や才能を示唆しますが、同時に優柔不断な面も表します。
地格(15画): 「温和、円満」を表す吉数です。若年期の運勢や環境が良好であることを示します。
外格(21画): 「努力が実る」という意味があります。社会との関わりにおいて努力が報われる傾向を示します。
総格(35画): 「波乱に富む」という意味があります。変化の多い人生を示唆し、大きな成功と失敗の両方の可能性を秘めています。

織田三郎の姓名判断
画数計算
- 織(おり): 18画
- 田(だ): 5画
- 三(さぶ): 3画
- 郎(ろう): 9画
五格の算出
- 天格: 織 + 田 = 18 + 5 = 23画
- 人格: 田 + 三 = 5 + 3 = 8画
- 地格: 三 + 郎 = 3 + 9 = 12画
- 外格: 総格 – 人格 = 35 – 8 = 27画
- 総格: 18 + 5 + 3 + 9 = 35画
各格の解釈
天格(23画): 「大吉の暗剣殺」とされる数です。強い運気と同時に危険も伴う数字で、大きな成功と突然の転落の両方の可能性を示唆します。
人格(8画): 「繁栄発展」を表す吉数です。リーダーシップと実行力に恵まれていることを示唆します。
地格(12画): 「独立独歩」を意味します。独自の道を切り開く才能があることを示しますが、孤独を感じやすい面もあります。
外格(27画): 「大器晩成」を意味します。時間をかけて大成する可能性を示唆しています。
総格(35画): 明智十兵衛と同じく「波乱に富む」という意味があります。大きな変化と劇的な人生を示唆しています。
両者の比較と考察
総格の一致
両者とも総格が35画で「波乱に富む」人生を示唆しています。これは両者が激動の戦国時代を生き、大きな変化を経験したことと一致します。
天格の違い
明智十兵衛の天格(20画)は「立身出世」を示す一方、織田三郎の天格(23画)は「大吉の暗剣殺」を示しています。これは織田信長がより強烈な運命を背負っていたことを示唆しています。
人格の違い
明智十兵衛の人格(14画)は「穏やかで平和」を示すのに対し、織田三郎の人格(8画)は「繁栄発展」を示しています。これは両者の性格や行動の違いを反映しているかもしれません。
外格の比較
明智十兵衛の外格(21画)は「努力が実る」を示し、織田三郎の外格(27画)は「大器晩成」を示しています。
これは両者のキャリアの違いを示唆しているかもしれません。
幸田サバ的解釈
明智十兵衛と織田三郎、この二人の姓名判断の結果は思った以上に歴史の印象に沿っていたように思います。
そして、二人共の総画が35画で波乱に富む運勢の傾向がありました。
戦国時代だったからなのか、それとも姓名判断のせいで波乱に富んでいたのか、今となってはわかりませんが、姓名判断恐るべしです。
本能寺の変の事
本能寺の変で明智光秀がおこしたことは事実です。
ではなぜ、明智光秀は主君を裏切ることになったのでしょうか?
それは私は明智光秀が優秀だったけど、人の心を読むことは苦手だったんじゃないかと思うんです。
たとえば徳川家康の接待を信長から言われたときに出した饗応料理に滋賀県の名産をだしました。
あの、くさい鮒ずし(滋賀県のみなさんごめん)を名産だからとだしています。
それ以外にもだしを十分に使った京料理などもあったようですが、信長や徳川家康の地元は濃い味を好む地域でしたから、光秀の考えた料理は…まずかった。
イメージとしては
くさくて、味がない料理だった。
これも光秀の優秀さが仇になったケースでしょう。
光秀が考える立ち位置
織田信長を支えているのは自分だと明智光秀は自負があったでしょう。
だからこそ、織田信長に自分の所領を取り上げられて、九州の領地を与えると言われたのは納得がいかなったんじゃないかな?って思うんです。
そして温和で平和主義者の光秀です。
織田信長の海外出兵の計画があったとされていて、まだまだ続く戦乱に次ぐ戦乱を辞めさせるのは自分しかいないし、主君である織田信長にクーデターを起こしても、みんなは自分についてくると信じて疑わなかったんじゃないかと思います。
平和はいつまでもやってこない…織田信長が主君の間は!
で、暴走しちゃった。
しかも、暴走しても織田信長の世を作ったのは自分だと信じていた(事実そうなんですが)明智光秀は織田信長の家臣は自分に付き従ってくれると信じて疑わなかったんじゃないかと思うんです。
苦労して仕官するまで長い年月があって、苦労してきた割に人の心を見極めるのが苦手で、それで身を滅ぼしたのは本当に残念としか言いようがなかったですね。
織田信長の事
織田信長という人は、私が考えるのは、自分自身に自信がなく常になにかに怯えていたんじゃないかと思うんです。
やられる前にやっちまえ的な。
子供みたいです。
まぁ、戦国時代は信じ切ったら、やられちゃうような世の中ですから、仕方ないのかもしれませんが、小さいころから辛酸をなめてきた織田信長なのでやっと天下が見えてきたタイミングで腹心と思っていた明智光秀にやられてしまった。
これは織田信長が明智光秀を信用していたからこその事件だったと思います。
まとめ
明智光秀と織田信長はが今の時代に生きていたらどうだったんでしょうか。
織田信長が社長で、明智光秀が部下だったとして、きっと明智光秀が病んでうつ病になり、休職して、その間に織田信長の会社は乗っ取られて終わりだったような気がします。
織田信長に明智光秀は必要でしたし、明智光秀も織田信長のもとで働くことは自己実現がかなっていたんじゃないかと思うんです。
何事も過ぎたるは及ばざるがごとし…二人とももう少し没個性になっていたら、ここまでの事件にならずに長生き出来て。。。いたかもしれません。
あ、でも朝鮮出兵はあったと思うので、その場合秀吉とか家康が死んでいたかもしれないので、歴史がかなり大きく変わりそうです。