生類憐みの令と聞いて、その反応は「悪政」という方が多いと思います。
かつての歴史の教育ではそのように教育されていたためですが、近年の研究ではその評価はぬりかえられているようです。
ではその悪政や綱吉の暗君説はどこから、だれがもたらしたのでしょうか?
なぜそのような評価になってしまったのかをお伝えしたいと思います。
犯人は特権階級の上級武士たちだった。
鷹狩という名の野蛮な軍事演習
生類憐みの令の内容は、現代では大事にされている、動物愛護と福祉の法令でした。
その法令の中に、鷹狩の禁止令があったのです。
また人の命を大事にするべしという法令もあり、無駄な殺生の代表と言える、辻斬りの禁止などがありました。
現代でもイギリスでキツネ狩りの禁止議論でもめていましたが、それと通じる内容です。
狩りものは特権階級でしかできない遊びで、それらを禁じる法令が出たことで、それに反発する上級武士たちの反感を買い、このような評価になっていったようです。
それが証拠に、綱吉死後にはいち早く、生類憐みの令のほとんどは撤廃されています。
しかし、綱吉のしたことは、その後の江戸社会に辻斬りは罪だと認識が植えつけられました。
綱吉の治世はおよそ30年間です。
その間に殺人や捨て子、捨て老人などの風習はなくなっていきました。
あの水戸光圀も反感を抱いていた
あの勧善懲悪の人気時代劇の主人公の水戸光圀と徳川綱吉の生きた時代は同じです。
綱吉が1651年4月生まれに対して光圀は1628年6月生まれです。
光圀の方が20歳ほど年上です。
生類憐みの令が発布されたとき、光圀は綱吉に犬の毛皮を献上しています。
明らかに、嫌がらせです。
同じように儒教を学んでいた二人ですが、その性格や行動は全く逆だと言えます。
光圀は若い時にはかなり、乱暴者で素行も悪く、寺の軒先の貧しい人を面白半分に殺害するなどの辻斬りをするという蛮行におよんだり、藩主となってからは水戸藩は石高に対して格式の高い家柄であったため、財政難になったからといって、税収を無謀に上げていくなど、あまり領民にとってはいい藩主とは言えない向きもありました。
対して、綱吉は人道的な文治政治を目指しました。
それまでの、関が原の合戦や大阪の冬、夏の陣から半世紀以上過ぎていたにも関わらず、力を行使する侍たちの蛮行をなんとか改善したいと思っていた綱吉とでは、水と油の関係だったと思われます。
そんな武士たちの中で綱吉の支持率は上がるはずもありませんでした。
綱吉の出自にも関係していた?
お母さんは八百屋の娘
綱吉の母は、桂昌院といい、生まれは京都の八百屋さんの娘でした。
大奥に入る前の名前は「玉」。
今でも「玉の輿」というのはこの方の大奥入内がもとになった言葉です。
日本では欧米と違い母親の出自で地位の継承権がなくなるわけではありませんでしたが、身分の低い母親から生まれたという出自を元に、継承権が下の方に移行することはよくありました。
父親の家光はそのこともあり、綱吉には学問、儒教を熱心に学ばせたと言われています。
直系子孫ではなかった綱吉
綱吉は家光の5男でした。
本来ならば将軍職を継ぐことはなかった出自とかさなり、舘林の藩主になっています。
35歳で兄の徳川家綱の養子になって将軍になった綱吉は、その母親の身分から、いろいろな武士に蔑まれていいたことは十分にありえました。
直系でありながら、母親の身分が低かったこと、それゆえに徳川家綱の養子にならねば将軍職につけなかったことなど不遇な対応でした。
将軍とは名ばかりで、家臣達からも馬鹿にされいると感じたり、実際に心の中で馬鹿にされている面もあったのではないかと思います。
忠臣蔵でさらに評価を下げた綱吉
忠臣蔵事件はただのテロ行為
忠臣蔵に関しては、私はテロ行為に他ならないと思っています。
武断政治を好む武士たちには受け入れ、称賛された事件でしたが、文治政治を進めたい綱吉にはありえない事件でした。
しかも忠臣蔵の事件の発端となった、松の廊下の刃傷事件は京都からの使者をもてなす宴の日のキレやすい短慮な殿様の浅野内匠頭のわけのわからない理由からの事件だった事もあり、浅野家臣の事件、忠臣蔵を家臣の切腹という形で納めました。
それを面白く思わないのは、武断政治に傾倒する武士たちでした。
町人もこの件に関してはかなり、不服もあったようです。
脚色された忠臣蔵の内容では、今でも年末の時代劇になったりしていますが、その史実自体は決して素晴らしいものではなく、食い詰め浪人が士官先を得るための行動でしかなかったのです。
綱吉の当時の武士以外の評価は?
綱吉の評価を日本国外の外国人はどうおもっていたのか・・・それはドイツ人のケンペルという人物が残しています。
ケンペルは元禄時代に生きた人物で後年のだれかの意見ではなく、しかも綱吉の出自を見て評価しているわけではありませんから、一番まともな意見だと思います。
ケンペルは綱吉のことを
「将軍綱吉は……偉大な君主である。
父親の意思を受け継ぎ、法を遵守し、また臣下には慈悲深く接している。
幼少の頃より儒教の教えを学び、国と人々を、相応しく統治している。
彼の下ではすべての人が平和に暮らし、法にのっとり、上下の関係は良好であり、対等の者には丁重さと好意をもって暮らしている」
とあります。
これは武士道などの先入観もないケンペルの意見は十分に信用のできる内容だと思います。
まとめ
この記事で、綱吉が上級武士たちの意識改革に反発が綱吉暗君説につながったと理解できましたでしょうか?
またその犯人の事も…。
現代に生きていれば、綱吉も名君と言われていたかもしれません。
人の評価というものは時代や価値観で大きく変わるいうことを実感しています。