歴史上の人物が○○だったら… PR

真田昌幸は生き残りの天才、現代でも通じる小が大に勝つ方法

戦国武将が○○だったら
記事内に商品プロモーションを含む場合があります

はじめに

昌幸の子の信繁像昌幸の子の信繁像

戦国時代、現代の長野県上田市に生きた武将がいました。

真田昌幸、真田幸村のお父さんといえば、わかりやすいでしょうか。

真田昌幸は小藩の大名で、小藩ならではの生き残りをかけた戦をし続けました。

その戦のほとんどはわずかな兵力で何倍もの大きな勢力と戦い、つねに勝ち続けていました。

真田昌幸はなぜそのような偉業を成し遂げることができたのでしょうか?

 

真田昌幸の生き残りをかけた生涯とは

真田昌幸は、1547年(天文16年)に、信濃国の小県郡真田郷を本拠地とする真田氏の三男として生まれました。

幼少期は、人質として11歳(現在ならば9歳くらい…小3ですよ…)甲斐国の武田氏に仕えます。

14歳で川中島の合戦で初陣をかざります。

その時の地位は足軽大将でした。

足軽大将というと足軽という響きだけで、下っ端という印象を持つ方もあるかもしれませんが、武将へのエリートコースというポジションです。

武田信玄に仕えながら、着々とキャリアを積み、信玄からは頼りにされ、相当かわいがられたようです。

武田氏の軍事教練を受け、その知略と戦術に磨きをかけました。

この時に受けた軍事訓練が、昌幸の戦上手につながっていきます。

詳しいことは後で書きます。

そして信玄の死後、武田勝頼に仕えましたが、勝頼の死後、1573年(天正元年)、武田氏が滅亡すると、真田昌幸は独立し、信濃国上田城を本拠地とします。

その後、織田信長や徳川家康や豊臣秀吉と対立しながら、情勢のいい方についたり、離れたり、巧みな戦術と戦略で生き残り、信濃を守り抜きました。

特に、上田城の戦い(対するは徳川家康)では、雪の降りしきる中、真田軍は雪の上に足跡を残さないようにして、敵陣に潜入し、奇襲攻撃を仕掛けました。

この戦いは、真田軍の勝利につながり、徳川家康を苦しめました。

この時に家康は昌幸のことを恐れるようになります。

長篠の戦いでは、真田軍は、狭い山道を巧みに利用して、織田・徳川連合軍の大軍を撃退しました。

この戦いは、織田・徳川連合軍の勝利になりましたが、真田軍の活躍は大きな注目を集めました。

その後は家康の傘下に入り、周辺の豪族と戦いながら上田を守っていきました。

しかし家康から北条氏との講和のために上田を差し出すようにいわれると断固拒否して、第一次上田合戦といわれる戦に発展していくのです。

この時家康軍は7000に対して昌幸軍は2000に及ばない兵のかずだったようですが、知略と地の利を活かして自軍は40人ほど、対して家康軍の兵は1300人ほど失わせます。

昌幸の兵はほとんど失うことはありませんでしたが、家康軍はおよそ25%弱の兵を失わせてしまったのです。

家康は再び苦しめられたことを苦々しく思っていたようです。

関ヶ原の戦いでは、真田昌幸は、上田に秀忠軍を引き留めることに成功し、秀忠は関ヶ原の本番に遅れてしまいます。

これにより、家康は、家康は、豊臣恩顧の大名たちの軍勢を主力にして戦わわねばならず、戦後の論功行賞では、彼らに多くの恩賞を与えねばならなくなったのです。

戦では勝ったものの、昌幸にしてやられた感がかなり強かったはずです。

確かにこの時に、昌幸は西軍に属し、敗北しました。

しかし確実に家康を苦しめました。

結局昌幸は死罪を言われるものの、長男信之とその妻の父榊原康正の助言で領地を没収され、九度山に流罪となり一命をといとめました。

流罪先の九度山で、真田昌幸は、1616年(元和2年)に、69歳で亡くなりました。

昌幸は信玄の元で何を学んでいたのか

昌幸の居城の上田城昌幸の居城の上田城

昌幸が実際に学んだことを今となっては知る由もありません。

しかし信玄、勝頼の死後の昌幸の行動を見ているとわかることがあります。

戦が上手というのは昌幸の場合は地の利を生かした、ゲリラ戦、諜報活動によって有利に進める方法が目立ちます。

少ない人数でいかにおおきな成果を上げるのか、現代で言うところの

・コスパ最強

とか

・費用対効果

などと言われる状態です。

昌幸の戦の仕方がまさしくそのような仕掛け方、勝ち方です。

昌幸が生き残るために学んだ事とは?

それは信玄のもとで人質生活をしていた時に仕込まれたに違いありません。

信玄と言えば、諜報活動…スパイ行為が得意な人物でした。

透波(すっぱ)と呼ばれる忍者集団を100人近く集めて優秀な透波を頭に据えて、複数の団体で行動をさせていたと言われています。

昌幸にとっての忍者のとは?

忍者と聞くとどのような印象をもたれるでしょうか?

怪しげな忍術を使い、敵には手裏剣を投げている印象でしょうか?

実は忍者の主な仕事は間諜(間=敵中での破壊工作、諜=敵内部の諜報活動)において、最もその能力を発揮し、戦国時代では戦略的な役割を持った頭脳集団としての組織として機能していたのです。

間諜の役目の中に間見(諜報)、見方(謀略)、目付(監視)の3つの役割があったとされています。

武田家の公式書によれば信玄は昌幸の能力を高く評価し、「我が眼」と称して重用したと言われています。

そして間諜の三つの役目には先述の通り「見る」「目」が入っていますし、しかも第5次まである川中島の戦いの一番激しかった第4次川中島の戦いでは昌幸は「使番」という相手方を探る役目についていたと甲陽軍鑑にも載っています。

私が考えるに、信玄の元で昌幸は英才教育を受けて、みっちり間諜についての教育も受けていたと思っています。

それがその後の昌幸の戦のスタイルになって言ったんじゃないかとおもっています。

真田昌幸が生き残るためにしたこととは?

真田家の旗印の六文銭真田家の旗印の六文銭

小が大に勝つために

真田昌幸は現代で言うところの中小企業の社長…しかも中よりではなくかなり小に近い方の社長です。

それで仕えていた大企業の武田家が滅亡して、家を守っていくには大きいものの下に仕えてながら情勢を見て、動いていくしかなかったのです。

情報の大事さ

昌幸の間諜行動は城主となってからは忍びのものにさせていたようですが、それのノウハウを持っていました。

だからこそ、大大名=大企業である家康や北条氏、豊臣家とも対等に渡り合い、相手にかなりのダメージを与えることができたのです。

ここで現代に生きる私たちは、いかに情報が大事かという事を考えないといけません。

現代でも情報弱者という言葉がある通り、情報で勝つものも負けてしまうこともあるのです。

昌幸の姿から現代の私たちが見習う事

昌幸は領土や真田家興隆に対する執着心がとても強く、爽やかだったり、信念があるようには思えない武将にみえるかもしれません。

しかし、領土と真田家興隆の事に関してのみは、まったくぶれませんでした。

その様子は現代で言うなら、ヘッドハンティングされて破格の俸給を提示されれば、ライバル会社に移ることも平気にと思える人だと思います。

昌幸は常に戦において、いかに身内の犠牲者を出すことなく、絶大な「費用対効果」を上げることができるかを考えていました。それもつねにぶれていません。

家康も昌幸を小領主とバカにしないで、慎重にそして丁寧に接していれば傘下にでき、関が原ではもっと楽に戦ができたはずでした。

昌幸の人生の最後は無念の死で、残念なものにだったかもしれませんが、それでも大国相手に逃げることなかった生きざまは、現代人にも「小」が「大」に勝つヒントを提示してくれていると思います。

情報戦がいかに大事かという事も、私たちに教えてくれています。

昌幸の時代よりはるかに情報インフラに恵まれている私たちはもっと情報を上手に使う方法を考えて、うまく付き合っていく必要があると私は考えます。

現代で資本力の弱い「小」が「大」に頼ることなく生きていく方策は、「智恵」や「独創性」や「情報弱者にならない」方法ではないかと思います。

まとめ

真田昌幸は今から400年以上前に生きた人物です。

そんな前に生きた人物に私たちは教えられることがたくさんあります。

その教えを今一度かみしめることができたら、私たちの人生や生活はもっと幸せなものになるのではないかと思います。