はじめに
石田三成の本当の敵は誰だったのか?
結局のところ、誰に負けたのか?
関ヶ原の戦いにおいて、徳川家康に敗れた石田三成。
光成の死後、徳川家康は天下を掌握し、江戸幕府を開きます。
しかし、石田三成は本当の敵は徳川家康だけだったのでしょうか?
近年の研究では、他の大名たちも三成の敵であったという見方が出てきました。
では、石田三成の本当の敵は誰だったのか?
そして、彼は誰に負けたのか?
このブログでは、石田三成の政治的・軍事的立場、敵対していたとされる徳川家康、石田三成の性格や実績などを踏まえて、三成の本当の敵について考えてみたいと思います。
石田三成の敗北した理由と本当の敵について書いてみたいと思います。
石田三成ってどんな人物?
石田三成はどんな人物だったのでしょうか。
まじめで誠実
三成はとてもまじめな性格だったと思います。
誰に対しても真剣に向き合い、真剣な話を好んだように思います。
それが関ヶ原の時に協力者が少なかった理由の一つです。
融通が利かなかった
三成はとても優秀な頭脳の持ち主でした。
しかし、実務はできても、人の感情の機微に関しては感じ取る力が弱かったように思います。
みなさんの周りにもいませんか?
確かに言ってることはそうだけど、納得いかない言い方の人ってまわりにいませんか?
そういう人は仕事では評価されても、地味に出世が遅かったりしているようです。
頭脳明晰
三成は頭脳派でした。
いろいろな面でその能力を発揮したようです。
いろいろなエピソードがある中で特にすごいエピソードは秀吉による朝鮮出兵に関してです。
これは後で説明します。
人の心が読めない
頭脳明晰であるがゆえに、これは現代でもよく見られる社会の一場面です。
優秀であるがゆえに、できない人の気持ちが理解できないという事はよくあります。
これが三成最大の欠点といえて、関が原で敗北した一番大きな原因です。
三成はある意味KYだったのかもしれません。
有能な三成の功績
朝鮮出兵にみる三成の功績
石田三成は、豊臣秀吉の命を受けて、朝鮮出兵の総大将を務めました。朝鮮出兵は、1592年から1598年まで行われた、日本と明の間で行われた戦争です。
石田三成は、朝鮮出兵において、以下の点において優れた指揮ぶりを発揮しました。
厳しい規律の徹底
石田三成は、軍の指揮を執る際には、厳しい規律を徹底しました。
そのため綱紀は乱されることなく、軍の士気は高まり、戦闘においても優れた成果を上げたようです。
兵站の整備
石田三成は、兵站の整備にも力を入れました。
兵法にも強かった三成ですから、水を得た魚のような働きだったと思います。
そのため、軍は十分な食料や武器を供給されることができ、戦闘を継続することができました。
そのようなそろばんが得意な三成はそれだけで兵1万の値になるのです。
戦術の工夫
石田三成は、戦術の工夫にも長けていました。
三成の知識は歴史学、儒学、兵法に通じていたと言われています。
例えば、碧蹄館の戦いでは、奇襲攻撃を仕掛けて、明軍に大勝を収めました。
これらの指揮ぶりにより、石田三成は、朝鮮出兵において、重要な役割を果たし、勝利に貢献しました。
他に幸州会戦(1597年)では城攻めを渋る他の武将に反対して、積極的にせめて勝利を収めていますし、蔚山城の戦い(1598年)では蔚山城を守り抜くことができました。
そして全軍撤退の時には戦が終わって朝鮮から引き揚げてくるときに、その手配をすべて三成がしていて、無事に完了しています。
このように、石田三成は、朝鮮出兵において、優れた指揮ぶりを発揮し、豊臣軍の勝利に導いたと言われています。
しかし、武将の中にはその手腕が面白くない人物もいたようです。
豊臣秀吉死亡後
三成にとって秀吉が死亡したことは、気苦労の種が消えたことだったと思います。
晩年の秀吉は政治手腕よりもただの色ぼけ痴呆老人としての面が際立ち、対応に追われていた印象があります。
その問題の種がいなくなったけれど、さらに三成は苦労し続けることになります。
秀吉が没後、石田三成は、豊臣政権の五奉行の一人として、政務を担当していきます。
優秀な人物とだけ評されていた三成ですが、ここで融通の利かない、他人の心を推察できない三成の悪い面が際立つようになります。
豊臣秀頼の後見をめぐって、徳川家康と対立するようになります。
最近は諸説あり、それほど家康と対立していたわけではないという論もありますし、私怨をいだくような三成ではなかったという事も言われていますが、まだよくわかってはいません。
一方、毛利輝元と前田利家は、徳川家康と対立する立場でした。
そのため、石田三成は、毛利輝元と前田利家と結び、徳川家康に対抗しようとしました。
しかし前田利家はほどなく他界してしまいます。
家康と同等の立場と力とを持っていた重石ののような前田利家が亡くなったことで、家康がしたい放題なふるまいのように見えて、アンチ家康勢は急速に戦支度に傾きます。
この後、関ヶ原の合戦となり、西軍の大将だった三成は敗北し、六条河原で処刑されてしまいます。
なぜ、三成は関が原で敗北したのか?
三成が関が原でしなかったこと
関が原の前の調略戦の時に、三成と家康は方々の大名たち送っています。
この時に三成と家康の書状には決定的な違いがありました。
それは相手の心を知っているか知らないかの違いでここまで大きく味方になるものを生むか生まないかの違いができてしまったと言えます。
三成の書状
「家康の悪口書き連ねる、家康を一緒に倒しましょう」
これだけでした。
対して
家康の書状
「三成を倒しましょう。そしていい世の中を作りましょう。そして私に味方してくれたら恩賞はこれくらいですよ。」
と明確に将来のビジョンが示されていました。
明確なベネフィット…利益や恩賞を提示することで、人の心は従うものだという事を、家康は知っていて、おそらく家康よりも実務に優れていた三成は人の心をはかり知ることができなかったために、関が原で勝つことができなかったと私は考えています。
結局、三成の敵はだれだったのか。
三成の敵、それは三成以外であり、そして三成自身だったと思っています。
家康以外にも、三成は多くの敵に囲まれてました。
例えば、加藤清正は武闘派であり、文人派の三成は気性的にも合わなかったでしょうし、福島政則は朝鮮出兵の折の三成の責任をかなり激しく追及していたようです。
淀君は、三成にとっては主君の母君で、忠誠を尽くしていたにも関わらず、あっさりと徳川方に寝返られてしまっています。
兵法を知り、学問があっても、人の心を理解していなければ、勝つものも勝てなかったということを物語っています。
事実、関ヶ原の布陣でも西軍優位だったはずです。
しかし負けてしまったのは三成の手腕や力不足だけだったわけではなく、三成の人の心を理解する力が家康よりも足りていなかったという事に尽きると思います。
まとめ
三成の人生は今の私たちにいろいろと考えさせられるテーマです。
そして実は三成という人物は現代の経営者には人気があるようです。
ナンバー2の理想的な人物のようです。
私たちは三成の生き方を見て必要なものは何かという事を再認識していく必要があると思います。